「比格」する価値の範疇に属さないので、五十歩百歩の「比較」で論ずるのが、戦争といものである、と考えるようになりました。
そもそも、良くないに決まっているのですから、その優劣を論ずるのではなく、仮に「比較」する場合でも、その「まし」加減で論ずべきでしょう。
したがって、戦争はより被害の少ないものが「まし」であって、被害の多いものが「なお悪い」事になるでしょう。卑近な例としては、利権と戦争被害を比較考量するだけの、一種のやくざの出入り的戦争の方が「まし」なだけ、始末によい事になります。
この場合、動機の優劣を論ずる意義や価値はありません。戦争の大義をもっもらしく論ずれば、有害な風潮を、後世に向かって、拡大再生産しかねません。
よって、悲惨極まりない「宗教戦争」や「聖戦」ほど質の悪い存在はありません。それらが宗教的信念や目的遂行の上での事故犠牲に立脚するからです。明らかに利権争いの延長の戦争の方が、「よりまし」な戦争となります。
まして、戦場での戦闘の犠牲者を、ことさら神聖視し、非戦闘員の死亡者を一切捨象する国家主義的な宗教施設ほど、欺瞞に満ちているばかりでなく、災厄をもたらす危険なな存在は、現世では他にあり得ません。
物言わぬ戦死者を神聖視する、といった巧妙な方法で、戦争遂行者の大罪を糊塗するからです。
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