19世紀末の清朝末期から現代への中国革命の沿革は、進歩と反動、暴走と復古、合作と分裂などなど、様々な試行錯誤の見本市といっても良いほどです。立憲君主制か民主制かの、どちらかを革命運動の綱領とする場合、清朝といった満州族の王朝のもとでの、漢民族が弁髪を強制される事を象徴するような、異民族支配の状況が、日本とは異なる複雑さをもたらしたようです。
孫文の革命運動の母体『興中会』と、セッ江省を基盤とする革命運動の母体『光復会』とは、本来は別物であり、湖南省を基盤とする『華興会』を含めた三つの団体が合同して、「中国同盟会」となっています。その後も、孫文の行動に批判的な指導者によって「光復会」が、再度独自の革命運動を歩み始めた時代もあったようです。
但し、孫文とセッ江省奉化県渓口出身の蒋介石との結びつきを考えれば、奉化市地域に限っては、孫文党とも言うべき人脈があったものと、現段階では推定されます。
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