生存権を規定した日本国憲法25条について、殊更に『憲法に規定された云々』と摘示しなくても、生活実感からその精神が浸透し、国民一般に普及しているようです。本家本元の護憲政党や保守系の護憲派ではなく、野党第一党に支持が集まることが、自分達の『生存権』を確保するための、最も速やかで確実な方法である、といった「生活の知恵」が反映しているのでしょう。
国民各自の生存権を犠牲にする政治は、今後成立する可能性は少ないであろう、と考えられます。なぜでしょうか。
「痛みに耐えて」といった政策が、結果的にまた恒常的に国民に犠牲を強いる政策でしかない、といった政治の実態的な法則を、古くは「軍国主義」、近年では「新自由主義経済」で、国民が学習してきた積み重ねである、と考えられます。
こういった場合、「軍国主義」や「新自由主義経済」に真っ向から反対し、多くの自己犠牲を払いつつ抵抗を続けた勢力は、さほど見返りを得ることが無いのが、歴史の法則でもあるようです。前衛的な人々は覚悟している事とお察しします。
政治の決着は、何時の時代にも、「足して二で割った」中間の勢力に落ち着くようです。政治の世界では、常々厳しい弾圧や批判に晒される構成員(主義者)や同調者(シンパ)を擁する勢力と、常々甘やかされては漁夫の利を得る勢力とがあるようです。
前者に属するあるいは与するとすれば、自己犠牲を覚悟しなければなりません。後者に属するあるいは与するとしたら、心ある人ならば一定の罪悪感を免れることは困難でしょう。後者の勢力の「浅薄な利にさとる」集団の醸し出す、おぞましき道徳的退廃を結果的に後押しするからです。
平和憲法は、国民の生命と財産を守るためのものであり。更には、国際的な紛争を武力で解決するとか、武力による威嚇で解決するとかの、流れを防ぐものです。これを直接的に国民に訴える勢力が、少数派として先鋭化し正面作戦を取ります。
その一方で、ともかく国民の生活にしわ寄せのある「新自由主義経済」を否定することで、側面から間接的な作戦をとります。「新自由主義経済」批判し、大きな勢力となって既存の政治勢力を、政権から排除しるでしょう。結果的には、究極的な人権侵害である、「戦争をする国」への道筋を止める、といった思わぬ功績を及ぼします。
但し、現下の選挙制度は、4年前にも思ったことですが、既に成熟の域に達する日本にとっては、「総てか無か」といった政治決着は功を成さないでしょう。既存の行政機構を抜本的に改革する、との名の下に、極めて行政的な習熟度の低い人々の暗躍を容認し、「単に意欲だけ旺盛で、能力を伴わない多くの人々」によって、国民にとって大きな損失の現出する可能性が大でしょう。
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