私宮岡治郎は自らの人生の極々初期に、「おまつり」というものを認知しました。以来、祭りをありふれたものと漠然と、或いは漫然と捉えて、参加したり傍観したりして、五十年近くが経過しました。
今年の『入間万燈まつり』は、別に天候に恵まれた訳ではありません。私自身も、例年と違った行動を取ったわけでもありません。
しかし、なぜか祭りの意義や効用を確信するような場面に多く出会いました。祭りの意義とは、日常性に埋没せざるを得ない社会生活や職業生活では、なかな出会えない人々、気まずい事などがあって疎遠となっている人々が、「晴れの場」で、率直に交流できることに最大の意義があるということです。
それを、祭りの正道を堂々と行く参加者と、反面教師的な参加者との差異から見出しました。祝辞(挨拶)や演出・展示は、より多くの参加者に均等に理解されることを心掛けるべきでしょう。
「祝う」、「癒す」、「わだかまりを超えて交流する」といった本来の意義を理解する参加者は例えば、祝辞や演出・展示でも、単調なようであって賢く奥ゆかしいものです。
逆に、祭りの場を自己中心的な宣伝や、あるいは狭いグループの内輪の満足の終始するようでは、どのように上手く立ち回っても、自己満足に止まるということです。祭りの参加者にとっても、祭りの効用の本質論からいっても、何ら賞賛に値しないということです。
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