池袋西武の書店で、新潮文庫版の松本清張短編集を買い、短編作品の『顔』を読みました。昨年の暮れにNHテレビドラマ『顔』を視聴した際の内容が、原作と微細な科白や独白、心理描写等、相等の部分まで一致した脚本と演出であった事が、年が明けてから私に判明しました。どうやら、1957年の映画化の方が原作とかなり隔たった内容で、松本清張の他の短編小説を合成する等による、筋書であったようです。
小説は、犯人の井野と目撃者の石岡とが交互に、それぞれ語り手となって物語が展開する構造となっています。京都の料亭で、偶然に両者が居合わせた時、目撃者は犯人の顔に気付かず、逆に犯人は目撃者の顔に気付く、といった逆説が面白いところです。井野は「ぽとりと音を立てて朱塗りの箸」を「畳の上に落とした」、事を語っています。
原作では、井野の生い立ちや社会的背景については触れていません。犯罪者に多くあるように、単に自己中心的な男が登場するだけです。
原作は、主人公井野の9年前の殺人に続いて、第二の殺人を企むまでの経緯、自分の顔から「面が割れる」可能性についての様々な憶測、などなどに心理描写が絞られます。その単線的な筋書きを補完する筈の目撃者石岡は、実際は犯人の顔について、記憶が薄いといった設定が、なかなか現実的です。
読者から見れば、主人公が、様々な想定を前提に、勝手に恐れているだけで、目撃者はそれに比べてあなりに頼りない存在です。
ところが、そのように思わせておいて、突如映画館で、映画に登場する井野の喫煙場面で、一気に結末へと進みます。この着想の妙味が、この短編推理小説の醍醐味です。
テレビドラマでは、これに社会派推理小説の創設者で、その道の大家の松本清張の本領を、様々な他の作品群や清張本人の生い立ちや人生経験から、換骨奪胎しているようです。
テレビドラマ化に際して、意識して付け加えたと思われる要素は、例示すると次の通りです。
①劇団看板女優で、大作映画のヒロイン役を設定している。
原作の時代背景もありますが、清張の女性蔑視的な偏った作風の弱点を、補完するための補助線と思われます。
②主人公井野の生い立ちを、少年時代の純情さを前提に、戦場での戦友に対する嘱託殺人、敗戦直後の担ぎ屋体験などを描いている。直接間接に戦争が、主人公の犯罪を惹起したとして、戦争反対の意思表示がある。
時代設定の昭和31年(1956年)が、「もはや戦後ではない」といわれる社会風潮に、異を唱える内容の映画制作で、主人公こそが過去を引きずり、犯罪も発覚する設定となっています。
コメント