西洋では、主だった哲学書は、哲学体系の中に、総論や各論、哲学用語の定義、章の記述の順序が定まっています。哲学書の記述の解釈は、体系の把握を前提としています。
ところが、『論語』では、哲学体系の目次は無く、総論と各論の区別は無く、哲学用語の定義は無く、章の記述の順序は無く、章(篇)の中でさえ、論述の順序はありません。
『論語』は、どこから読み始めても、差し支え無いようです。『学而』篇から読み始めるのは、あくまで便宜上の意味しか持たないでしょう。
しかし、『論語』のよって得られる孔子の思想の本旨を、正しく、少なくとも妥当程度に理解するためには、全体を通読することが、必要条件です。
更に、健全な理解力(悟性)と、君子あるいは君子に準じた日常行動とを、兼ね備えるといった、必要条件を前提とします。
その二つの必要条件の上で、『論語』といった隠れた哲学体系を知るべく、『論語』の正門から、正々堂々と入場しなければならないでしょう。
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