古代中国の古典、『老子』の一説に「道可道、非常道」があります。読み下しでは「道の道とすべきは、常の道にあらず」となり、訳としては「これが道だと説明できるような道は、本物の道では無い」、となります。多少残念なのは、「憲政の常道」と言った場合の「常道」、広辞苑では、「常に従うべき道。常に遵守すべき道。」とは多少意味合いが違って来る事です。
政治家が道徳や社会規範などを、一般市民を前にして演説したり、議会の本会議場で論ずるのを、脇で聴く機会が多くあります。しばしば、私はその政治家の私的な日常の言動や文化志向と対照して、落差に戸惑う事がしばしばです。
しかし、そもそも政治とは、一定の虚構を作り出して、それを前提に世を論ずるものであり、そのような挙に出るのが政治家の宿命である、と最近考えるようになってきました。
そもそも漢字の「政」とは、正しい事を、鞭を振るって強制する意味のように解釈します。無為自然に正しいことが行われ、自ずから世の中が正しく治まるものならば、「無為自然」が正しいのでしょうが、文明といった自然とかけ離れた基盤を前提とした、現代の「文明」世界に生存せざるを得ない人類にとって、老荘思想は理想のまた理想でしょう。
そこで、政治家が「道」であると提示した場合、基本的には否定的に考える習慣を身に付けるのも、成熟した社会、民主主義の要件でしょう。これが、民主主義を「健全」に保つための、必要条件でしょう。多少悲しい現実ではありますが。
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