彦根城を中心に、博物館、玄宮園、埋木舎(うもれぎのや)と、幕末の大老井伊直弼(いいなおすけ 1815~60)ゆかりの施設を中心に見学しました。また、彦根市役所、JR・近江鉄道彦根駅や駅前通り、裏通り、更に城の外濠(旧中堀)南西側の京橋に連なる、街づくり修景事業地区『夢京橋キャッスルロード』を見学しました。その間、駅前の食堂では、地元名産の『ふなずし』も食べました。
この見学には、私なりの明確な目的、あるいは目的意識がありました。すなわち、昨今の日本の外交や安全保障問題を考える、ヒント(示唆)を得ることです。これが念頭にありました。
去る9月28日に旅行で伊豆下田に立ち寄りました。江戸時代末期の1853年、いわゆる安政六年の黒船来航と、アメリカ側の大砲での武力の威嚇等により、『日米和親条約』が締結され、函館と共に開港したのが彼の下田港でした。アメリカの総領事のハリスが着任しています。
当時の日本の政治の局にいた、幕府の大老井伊直弼の人物像や特性を知って、現代の日本の在り方について、何らかの手掛かりを得たい、といった強い願望が私を、直弼が藩主であった彦根に導いたという事です。
国家の威信としての『尊皇攘夷』という標語は、決して日本独自の思想的な源流があるわけではありません。元から漢籍に存在し、中国が異民族支配に対抗して「天子」を押し立てるというった意味で成立している筈です。
そうなれば、『尊皇攘夷』の反対概念で、一定の現実的政策に相当する『佐幕開国』を、強大な反対勢力の対峙して断行した、あるいは断行せざるを得なかった大老直弼の本質を探る手掛かりを得て、現代の日本の状況に対処するために、一地方議員として及ばずながら役立てたいと考えての、私なりの行動でした。
譜代大名の中でも、掃部頭(かもんのかみ)として多くの大老を輩出した、彦根藩に生まれた直弼です。藩祖直政以来、『赤備え』の武闘派的強権政治を押し通し、『安政の大獄』といった、悲惨な弾圧により、多くの有為な人材を消し去ったのは、客観的事実です。
刑罰そのものが内包する、『悪』の側面が充分に理解されず、結果的に主家徳川家の政権の崩壊を早めたことにさえなっているでしょう。
これが日本の悲劇であるとすれば、どのような構造・仕組みでこのような仕儀と相成ったのか、直弼の個人的な性格や境遇だけに帰せないものがあるようです。それは、国学に浸って儒教的な中庸主義を排除し、殺生を禁ずる仏教に帰依せず、一方で、茶道や華道の造詣に深い、芸術至上主義的な人生観と、徳川家絶対主義に源にがあるようです。