自治体間の国際交流は、基本的に国家間の対立を未然に予防するとか、既に双方で発生している緊張を緩和する場合に、その本来の真価を発揮するもの、と考えています。
しかし、既に厳然として存在する大きな歴史的教訓について、それを目の前から除外して、忘却の彼方に追いやるとするならば、ましてそれが、両国間だけの問題に止まらず、広く人類の存続に係わる、記念物である場合、『友好親善の障害物の除却』の美名の下に撤去されたとしたら、自治体の国際交流の『悪しき事例』となるでしょう。
先日視察した長崎市の場合、この『悪しき事例』が、原爆資料館の案内の方によって示されました。私も、今後国際交流の方向性を決して誤ることの無いように、気をつけたいと考えました。
長崎市は1955年に、アメリカ合『州』国、ミネソタ州のセントポール市と姉妹都市提携を結びました。双方が、大きなカソリックの宗教施設を擁する事が、きっかけかと思われます。日米にとって、戦争終結後10年目という「節目」であったからかも知れません。
長崎市は、原子爆弾を投下された「被爆都市」です。最も象徴的な建造物が、『旧浦上天主堂』であることは、被爆当時、「東洋一のキリスト教会」の堂宇であり、その創建に至った信徒達の苦難の歴史的な背景を含めて、論を俟たないでしょう。
被爆によって崩壊後、その残骸は、原爆の脅威を物語る記念物として、保存するのが正論であり、事実、長崎市議会での「保存」の議決もあったようです。市民の意思を率直に反映したものでしょう。
ところが、そこに姉妹都市交流が思わぬ作用をしました。セントポール市側の、アメリカ政府を背景と思われる懐柔策が「功を奏した」のです。セントポール市を公式訪問し、長く滞在した長崎市長が、残骸の撤去の方針を打ち出しました。その結果1958年に、原爆の「生き証人」ともいえる「残骸」は、消滅してしまったのです。
国際平和を、根本義とする国際交流が、戦争の最もおぞましい現実の記念物を消し去った、この長崎市とセントポール市の姉妹都市の事例は、その経過や背景を検証し、将来にわたって反省材料とすべきでしょう。
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