学校時代の同級生仲間の私的な「情報交換」サイトにほとんど書き込む事も無く、時々閲覧だてしています。私はいわば傍観者です。
ティーンエージャー時代と、50台の半ばの今とで、人の性格はあまり変わるものではありません。
仙台にある国の出先機関で、窓ガラスの割れた庁舎で、行方不明の同僚に憂えながらも、災害復興への取り組みと決意を綴ったA君は、論語の「弘毅朴訥仁に近し」の性格のままのようです。
『福島第1原子力発電所』に関する所謂「ガセネタ」を披瀝し、多くの人々の努力や献身を閑却して、瑣末時を適示したがるBは、本質を離れた論述が好きなようで、「巧言令色」の性格が変わらないようです。
徳望の意味および価値とは、何でしょうか。それは、自分の言動がどれ位、他者に「主観的に」信じられるかでしょう。
客観的に後から検証すれば、何人たりとも100パーセント正確な判断を求めるのは、不可能です。可能な限り錯誤が少ないのが必用条件です。勿論、意図的な情報操作は論外です。
それだけではありません。敢えて申し上げれば、他者が「この方の言動であれば、正しかろうが、たとえ誤っていようが、『信じて』従おう」、といった時に、徳望の真価が問われるものでしょう。