歴史上、宗教論争を初めとする多くの理念論争が、確たる成果を上げずに、むしろ災厄をもたらしたといった実例は、枚挙に暇が無いでしょう。
日々与えられた課題を、最良に処理する作業に追われる身が、正体の怪しい閑人から「理念披瀝」を促されるのは、迷惑というよりも、人生の不条理を感ずる場合も多いのではないでしょうか。
それも、確たる定見を有し、客観的な論証の基盤に立脚し、そもそも真面目な人柄を信頼した上で、その方の理念の披瀝を受けるのならばまだしもなのです。
無定見さを何度も見せ付けられ、かなり恣意的で、足場の定まらない人が、その場限りの言い逃れや、幻惑の企みを試みたとしても、そうは問屋が卸さないものです。
それほどに、自己の「理念」を披瀝するのは、困難な作業です。
究極の目的から遡れば、かなり手前の段階の一手段でしかないものを、自己目的化することにより、目的への努力を遠ざけ、時を浪費し、時間切れに持ち込む。
そういった策略を、特別に意図する前に、日常のご都合主義の連鎖の中で、無意識の中で、ごく自然に振りまく人々が多いようです。
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