古代中国の春秋時代、呉越の戦いの局面で越王勾践に仕え、終に呉を滅ぼした「功労者」の政治家ハンレイについては、『春秋左氏伝』に、その活躍ぶりが描かれています。
一方、『史記』の『貨殖列伝』では、ハンレイが越国を去った後に話が及びます。後日談と云えるでしょうが、含蓄のある内容になっています。ハンレイは、陶国で朱公と名乗り、商売人として再出発し、後に富豪となったようです。
その中の逸話として、朱公は、ある重要な使いとして「朱公が富裕となった頃になって生まれ、苦労しないで育った」三男を向けようとします。
ところが、「朱公がまだ貧しい頃に、苦労して育った」長男が、〈それでは自分の面目が立たない〉として、使いを引き受けたところ、重要な目的が不首尾に終わりました。 帰った長男に対して、朱公が、三男を向けなかった時点で失敗を予期していた、と述懐します。
一般的に、苦労して育った者は、人情の機微に通ずる、気配りが出来るとされます。その点で、苦労しないで育った者は劣ると見られて来ました。が、司馬遷は二千年以上前に、その逆の実例を示しています。
すなはち、長男は、様々な俗才に妨げられて失敗し、三男であったならば、率直さ故に余計な配慮に囚われる事無く、目的が達せられたであろうに、と朱公をして感慨に浸らせています。使いに赴かせた先が、清貧の宰相であったためです。朱公は、予め使い先の宰相の人となりを承知していたのです。
李陵を弁護した廉で死刑を宣告され、宮刑の恥辱で生き永らえて、歴史書『史記』を後世に残した司馬遷の人間洞察力は、真理を極限まで追求しいます。それは、大衆迎合の紋切型に筆が萎える、現代の凡百な評論家を遥かに超えています。
『史記』が『論語』と並び、古典中の古典と賞賛される所以です。
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