着眼は大局であるべきですが、まず着手は小局であるとして、「政局なるもの」があるようです。その「政局なるもの」の駆け引きの技術の中では、本来の政党や会派の意思とは反対の言行もあり得る、というのですから厄介なものです。
このような、曰くありげな賢しらがな論理に、一般国民はもちろん、地方議員も立ち入らないことが、肝要であろうと考えました。結局、国政の混迷を助長するだけだからです。「政局なるもの」を冷ややかに無視することで、幾分かは国政の体たらくさは解消されるのではないか、といった希望的観測を私はします。
「愚昧な民の上に苛き政治(苛政)あり」、といった諺が西洋にはあるようです。日本人が必ずしも愚昧な民とは考えませんが、素朴な悟性で政治を判断せずに、「政局優先」で政治を云々する民の上にも苛政がある、と認識すべきでしょう。
日本人が、政治上の特殊な仕組みに対して、必要以上に寛容であるのは事実でしょう。それが政治を分かりにくくさせ、決定の過程、責任の所在を不明確にしていると考えます。
例えば、本来の政治決定機関でない、特例的な、あるいは臨時的な機関の存在です。平安時代に、太政大臣を差し置いて、摂政・関白がいました。鎌倉時代に、征夷大将軍を差し置いて、執権がいました。さすがに近年は少なくなって来ましたが、「院政」という言葉が、長年普通名詞的に通用して来たのも事実です。
これらの「役職」は、表で大義名分の看板を掲げながら、裏では公益に反する、あまりにも恣意的で私的な動機付けの、折衝の装置と考えられます。「公論」の不在が、政治を冒涜する訳ですが、その跳梁跋扈を許さない姿勢が、国民にも、我々地方議員にも必要です。