一昨日の旅行で、平泉の『中尊寺』を参拝・見学した際と、後で調べて確認した際との、雑感を多重的に述べます。私にとっては、1977年の夏以来の再訪でしたが、今回も、平泉地区の他の遺構である、毛越寺や義経寺などに足を運ぶ機会ががなく、多少残念でした。
また、『中尊寺』そのものも、東方面から「月見坂」を登って、道すがら伽藍を巡るのが本筋でしたが、金色堂近くの坂の下にバスを寄せての参拝・見学となり、団体旅行の宿命と考えています。
天台宗の東北地方の総本山「天台宗東北大本山」の拠点となる「本堂」は、1909年(明治42年)に改築されたようです。比叡山延暦寺や、数ある京都の諸宗派の総本山に比べれば、小ぶりの建物のですが、門の高さや、階段の歩幅などは、参拝する人々の尺度として東北基準ともいうべき、大き目のサイズの構造です。山号の「関山(かんざん)」は、伽藍の広がる丘陵の地名かた取ったようです。
850年に基礎が築かれた中尊寺の開基の円仁(慈覚大師)は、宮城県内の瑞巌寺や山形県内の山寺(立石寺)も創建した様なので、東北地方の寺院創建の先駆者なのでしょう。
『金色堂』は、阿弥陀堂であるようですが、その「覆堂」を後世に建てたのは、鎌倉幕府の宮将軍(皇族将軍)のようです。奥州藤原氏を滅ぼした、「清和源氏の嫡流」の頼朝やその子孫ではなく、「鎌倉政権の簒奪者」の北条氏でもない訳です。
この鎌倉宮将軍の意志の記念物である「旧覆堂」が、離れた場所に移築されて健在であり、その金色堂の抜けた空洞の中に踏み込めるのは、数々の想像力が湧き、存外の収穫でした。
江戸時代前期に、数々の寄進をした、仙台藩藩主伊達綱村は、「伊達騒動」の際には幼児でありながら藩主となり、「騒動」の突然の終結の時点でも少年であり、その後成人しています。綱村の社寺への寄進三昧が、騒動の原因ではなく、後日談として、騒動の犠牲者を追悼するための、寄進であった可能性はあり得るようです。※もっとも、放漫な藩政が重臣団の不興を買い、次の藩主への交代を早めたのは事実のようです。
松尾芭蕉が奥の細道で、金色堂を詠んだ句に、「五月雨の 降り残してや 光堂」があるのは、初めて知りました。
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