政治上のバイタリティーは、粗削りな気風から生ずるのが通例のようです。理論付けや権威化、あるいは正当化は、後から「粗削りでは無い」補助的作業者の緻密な労力により、CPU(中央演算装置)的な機能でありながら、政治上のテクニックとしては、付帯条件として加わって来るものでさえあるようです。
その際、文化的な洗練のような類は、政治上の機能主義からは遠ざかったものであり、むしろ積極的に遠ざけて置きたいもののようです。往々にして、「粗削り型」政治人(政治家とは本質的に異なる)は、洗練を拒絶する嫌いがあります。
政治の機能が、そもそも社会の諸矛盾を、一定の支持母体の後押しや一見剛腕、実態は狡猾な権力の下で、かなり無神経・無愛想に、それでいて制度や法令上は細やかに整然と謙虚に「正当化」して実施するためのようです。
過去にも増して、現代社会での政治家の実態は、文化的な「粋の世界」とは無縁のものです。よって、文化事業は、学校教育と並んで、教育委員会といった、政争をによって主体性を確立する政体の、直属の指令系統とは別建ての組織が、管轄する必要性にもうなずけます。
偉大な先人や知恵者は、ちゃんと布石を打っていたのです。よって、文部科学省も、政争からは遠ざかった存在であるべきでしょう。
かつて、封建時代では、政治家は同時に文化の担い手でもありましたが、民主主義社会では、「そうは問屋が卸さない」ものなのです。
本来は表裏一体であるべき政治と文化が、表用紙と裏用紙が引き裂かれた結果、どちらも等しく薄っぺらとなるのは必定です。その弊害は、双方に表れています。
すなわち、政治は矮小化し、文化は奥ゆかしさが消滅します。
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