漢字の「格」という字は、「各」(おのおの)という旁(つくり)の意味に、「木」といった偏が加わって、意味を限定していると思われます。おそらく、材木の長さ・幅・材質がそれぞれあるものを比べた際に、その違いを「格」といったのでしょう。
世上「格付け」という言葉があります。最近では、世界の金融市場での債券の発行主体の信用度で、日本の「格付け」が、多少下がってきたのは、気になる所でもあります。この場合の「格付け」は、経済規模の大小はあまり関係がなく、その国の経済状況の健全度でを基準に評価されるようです。日本が経済大国であるか、経済中国であるかは、経済の「一流国」と「二流国」を図る指標とは異なるようです。
もちろん規模的な大きさが、結果的に「格付け」に反映する場合も、多々あります。人口15万人の入間市と、人口30万人の市とを比べた場合、人口は2倍ですが、人口30万人で初めて指定され得る「中核市」とは比べられません。
量的側面の差は「較差」であり、質的側面の差は「格差」となります。入間市は、人口30万人の市と、単純な量的な「較差」だけではなく、「普通の市」と「中核市」との機能的な、質的な「格差」からも、免れ得ないのです。
しかし、この『格』という漢字を、「人格」のような用途で運用してみてはいかがでしょうか。すなわち、人に人格があるごとく、市にも「市格」というものがある、といった考え方です。
かつて、旧入間郡豊岡町の町長を長く務めた繁田武平氏の提唱した、『町村格』考え方の応用です。現代風に脚色すれば、「入間市とは何か」とか「入間市のアイデンティティーは」といった派生的な議論となるでしょう。
が、元来高尚な理念をお持ちの繁田氏は、深淵な哲学的要素を含んでいたものと思われます。君子が己の「人格」を磨くべく努力するが如く、「町村」→「入間市」も、そうあるべし、ということでしょう。
コメント