インターネットの「Gyao!」で、1970年制作のイタリア映画(当時のソ連ロケ)の『ひまわり』を鑑賞しました。
私自身は、1970年代前半の10代後半の頃に、どこか都内の名画座映画館で鑑賞済ですので、今回が約40年ぶり2回目の鑑賞となりました。 かなり正確に記憶している場面展開もありますが、記憶が他の映画のショットと混合している部分もありました。
もっとも、主人公達の心理の機微については、この歳になって理解出来るようになってきた事柄もあります。 主人公ジョヴァンナ(ソフィア・ローレン)と義母との、しっくりいかない関係。ロシア娘マーシャ(リュドミラ・サベーリワ)が、主人公の夫アントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)を極寒の不毛地帯で救済するするのは、アントニオに母性本能をくすぐる本質があったからではないか、等等です。
映画の圧巻では、ジョヴァンナのイタリア語とマーシャのロシア語のセリフがそれぞれ交錯します。 この場面は、言わなくても分かるような、人類普遍の行動形態が両者間に即理解され、語学力無しでの相互理解なのです。
ここで登場人物の対話ではなく、カメラワークを駆使するなど、無声映画を思わすような映画的な手法で、観客は映像的に、当事者達が「全て」を察知しているのを理解する仕組みになっていました。
全体を俯瞰すれば、引き裂かれた夫婦の悲劇を経糸(たて糸)に、重奏低音でもある戦争を緯糸(よこ糸)に、筋書きは展開します。が、戦地に赴いた夫は生きているはずだ、といった信念は、最もな不条理な形で、事実となって突きつけられ、織り込まれてゆくのです。
主人公夫婦が、ごくありきたりの庶民であり、国家的な大義名分とは無縁で、筋道を立てて「反戦平和」を貫いたわけでもなく、単に「結婚休暇」や「通謀の精神錯乱狂言」まで用いて、戦場へゆくのを免れたい、といった即物的な価値判断で行動した結果が、最悪の「ロシア戦線行き」となっていうのです。
イタリア軍の「ロシア戦線」とは、現在のウクライナの東のドン川流域への遠征です。 主人公の、アントニオ捜索のロシア(ソ連)への旅は、スターリンの死後、すなわちアントニオ生死不明から10年程が経過していることになります。
主人公が、モスクワの地下鉄からエレベーターで、モスクワの中心街へと上がってくる場面や、サッカー場で観客の中にイタリア的な風貌の男性を探す場面、雄大な丘に無数の墓標の拡がるイタリア兵の墓をあてどもなく探し回る場面、そして、ひまわり畑の中を通り抜ける場面など、巨匠デシーカ監督や、大プロヂューサー、カルロ・ポンティイあってこそロケが可能であったと考えます。
それにしても、現在のウクラナ情勢を想起する「ロシアでの戦い」の傷跡が様々に波及する悲劇の一つの形態が示されるわけですが、同時に、今なおやまない、人類の政治主導の諍いの愚かさを、再認識もしました。
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