人類の叡智は司法に集約される、と痛感している昨今です。 先日の福井地裁の大飯原発への司法判断を、1891年の大津事件に比定して考察する、あるいは考察せざるを得ない心持です。
大津事件当時、ロシアの皇太子を一巡査がサーベルで傷つけたるといった、驚天動地の事態の中、大国露西亜(ロシア)に対峙して、政治家達は右往左往する国内政治情勢でした。その最中、過剰的に司法に圧力を加える政治家の無定見ぶりが、現代の視点からは明瞭です。
厳然と司法権の独立を守り通した大審院院長の児島惟謙の姿勢は、客観的に当時の日本を救い、日本の対外的な信頼性を上げた事になるでしょう。
一方、フランス第三共和政時代の陸軍間諜誣告事件の『ドレフュス事件』に比定される、1910年~11年の大逆事件は、司法に対する政治の介入によって、多方面に多大の社会的閉塞状況を生み出し、内務省の特別高等警察を生み出しました。 後世、300万人を超える日本国民の犠牲をもたらした、あの大戦の原初的な原因の一つとなった、と考えます。
存外、司法制度の健在は国民を救い、司法制度の劣化は国民の多大の犠牲をもたらすものかと推測します。 司法制度の優劣は、ひとり訴訟当事者だけの問題として、矮小化しない方が良いでしょう。
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