厳しい状況に追われ、孤立無援の場合に、おそらく中国の故事からの出展である「前門の虎、後門の狼」といったたとえがあるかと思います。
しかし多くの場合、これよりもなおさら厳しい状況に置かれる場合がるのではないか、と気づきました。 これは、大いなる大義を究極の目的として、奮闘する歴史上の人物に典型的に表れますが、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが『職業(天職)としての政治』でいみじくも語った言葉にも表象されます。
前者は、16世紀末期の朝鮮水軍の提督李舜臣であり、後者は「真の政治家は、多くの場合同僚のあまりにも人間的な動機に基づく行動によって、行く手を阻まれるものである。」といったような記述です。
李舜臣にとって、敵は正面と背後と側面にありました。 正面の敵は、豊臣秀吉による日本の侵略軍、背後の敵は、腐敗堕落し気位ばかり高くて無能な両班と呼ばれる世襲貴族、そして側面の敵は、援軍といった仮面をかぶり、利権を収奪する明軍です。
李舜臣にとって、これ程の困難な状況下でなおも防衛戦争に奮戦し、正面の敵撃退の直前で戦死する意義とは何だったのか、ふと感慨にふけることがあります。
祖国の国土を防衛し、人民の安寧な生活を回復するといった大義でしょうか。 それよりも、日本の武士道精神的な、形而上学的な理念の自己目的化であったかと、今にして思うようになりました。 腐敗し堕落した国家ならば、いっそ滅亡した方が良いと考える心の隙も生じるからです。
「天職としての政治」では、『にもかかわらず、政治的な使命を果たす者こそが、真の意味での政治家に到達する』といった、人類の歴史上、古今東西共通で万古普遍の基本原理を感得し、ある種の「諦観」を具備した、わずかの政治家が世を救う、といった厳然たる、冷厳な現象を熟知すべし、とした警世の言葉として、真の政治家が獲得する、究極の意義を啓示しているのでしょう。