次回の一般質問のヒントを得たくて、東京都日野市へ赴きました。
到着したのが、概ね正午頃で、①市役所、②新選組のふるさと歴史観、③日野宿交流館、④日野宿本陣、を見学しました。
①は、外周道路から菱形に繰りぬかれた碁盤状の区画が、建物周囲だけ不正形で、尚且つ棒を屈曲させた形態の建造物となっており、注進的な広場も無く、駐車場を6つに分かれて、核ブロックが狭く、あるいは坂道の先であり、あまり関心で出来ませんでした。
②は、日野宿の起こりや、八王子千人同心、試衛館道場、の前提条件。 浪士組では清川八郎の率いられ、その後袂を分かって同時代に存在した、新徴組との対比。芹沢鴨一派の粛清、池田屋事件からの隆盛。高台寺党の抬頭と粛清、衰退と終焉。 後の自由民権運動への継承など、歴史の背景をふんだんに展示し、立体的な理解を意図していました。
私は、❶天然理心流の宮岡三八、❷武州一揆と日野農兵隊との関り、について学芸員の方に質問しました。
答えでは、❶は、八王子千人同心系の天然理心流の人で、日野の近藤周助系の新選組や日野農兵隊とは、無関係のようです。 ❷日野農兵隊の実力行使は、日野宿に押し寄せる一揆の群れを、追い返しただけのようです。
③は、甲州道の中での宿場の発生、他の宿場との比較、本陣・脇本陣の運営担当の上佐藤家と下佐藤家、助郷の負担割等が、項目ごとに展示されていました。
④は、一部減築した建物が保存・公開され、中にも入れました。 明治時代の途中から、建物の所有者が宮沢家に移り、大正年間の河原屋根修理では、なんと、私の母の実家、現在の入間市東金子地区の『瀧澤瓦』が使用されていました。
結果的には、次回の私のの一般質問にとりれられる内容は有りませんでした。 が、幕末維新に生きた人々の、多くの試行錯誤の実態が、把握出来ました。