江戸時代後期に、現在の『狭山茶』は、都市生活者の嗜好品の商品作物として、大消費地江戸の販路確保を前提に、企画され作付けが始まりました。全てが計画的であり、自然発生的な農作物ではありません。その背景には、『宮寺文化』といえる学芸の隆盛が、現在の入間市宮寺地区に有ったものと思われます。
『狭山茶』の創始者、村野盛政や吉川温順・緑峰父子のようなひとかどの文化人があったればこそ、江戸の大手緑茶流業者の『山本山』の主人とも対等に渡り合えたもの、と考えられます。文化は、家庭や寺子屋のような教育機関での、適切な教育指導があって初めて成立するものでしょう。文化は一朝一夕に身に付くものではありません。
「寺子屋」とは、読み書きそろばんの教室、といった印象が私のとっても強いのですが、初等教育機関に止まらず、意外と高等教育機関であったようです。その地域の最高の文化人の集う「文化サロン」の前提、ですらあったようなのです。なぜならば、寺子屋の主宰者はその地域の最高学府の長だからです。
事実、宮寺の寺子屋には、私の地元の入間市西武地区からも、通った人々の記録が「筆塚」に名が刻まれて残っています。また、私宮岡治郎自身、吉川緑峰の孫あるいはひ孫に相当する吉川幸助先生が、西武小学校校長時代に、5年6年在学の児童でした。よって私自身『宮寺文化』の流れを汲む教育を受けて育っています。
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