党派的な意識の強い政治家が、敵対する政治家を殊更矮小化したり、悪徳政治屋と見做す傾向があります。このような場合、その批判の語彙は、自分自身をも差している場合が多いようです。党派根性とは、決して特定の政党の公認候補として選挙を戦った政治家特有のものではありません。純粋無所属を標榜する政治家の中に、党派的根性のある方も見られますし、特定の政党の公認を得て議席を確保された政治家に、意外と「無党派」的な政治家もおられます。
専制政治にあってならばともかく、立憲政治や民主主義にあっては、複数の異なった理念の政治家の合議制で政治が進行するのが常態でしょう。異なった「理念」を、異なった「利益」と置き換えれば、たちまちに利権政治屋、といった範疇になり得るでしょう。
しかし、選挙によって選出される政治家或いは政治屋とは、そもそも特定の地域や特定の業界、特定の利益集団、特定の宗教集団、あるいは特定のイデオロギー集団といった、一般社会からは特化された集団の支持を得て,議席にたどり着いている場合が殆どなのです。そうは言っても、一定の集団の利益を背景に議会など公式の場で発言することそれ自体は、まさに「政治屋」的な要素でしょう。
政治家から政治屋的な要素を捨象すれば、残りは政治教育者や政治啓蒙家となるかも知れません。或いは「最大多数の最大幸福」をあくまでも追求する政治家となるでしょう。殆どの政治家が中庸をまもり、平準化されれば、殊更政治的な軋轢や紛糾もなくなるかと思うほどです。従来の私宮岡治郎の政治姿勢は、このようなものでした。特化された集団を背景としない政治とは、思いの外脆弱なものです。この脆弱さを反省している昨今です。
政治には、明らかな政治屋だけは排除する機能があるようですし、そのような方々は、余り長くは政治の世界に止まらないようです。なぜならば明白な利権とは、長らく反復継続して得られるのもではないからです。したがって、専ら私利私欲を追求する政治屋は政治寿命が短いもので、また、性急さもあり、危険負担も大きく、類似の他者との相克もあり、利益の対象も限定されるので、いてもごく少数に止まります。
ところが、相当に限定された地域とか、全体からは極少数の方々のある程度行き過ぎかとさえ思われる利益の代弁者的な政治家は、自称はしないものの実態として「政治屋」としての存在意義(レーゾンデトール)をもって長らく有力政治家として振舞う傾向があります。支持母体が明確であり、積極的な投票行動に出ることがわかれば、行政の執行部にとっては相当な圧力を感じます。
もっとも、それは行政執行権の無い、議員としての地位に半永久的に止まります。決して首長にはなり得ないものです。いくらなんでも、このようなレーゾンデトールを前提にしている「政治家」に、行政的な執行権を与えといった世論は発生しまいからです。その意味では、自ら政権の執政としての責任を果たす事を自覚することなく、圧力団体的な政治に止まります。政治屋的な要素と、圧力団体的な要素とは、重なる部分が多いようです。