「人柱」という言葉は、穏やかならざる例えでしょう。が、人類の歴史で真の政治家とは「犠牲的精神の持ち主」である、という結論に私は達しました。不謹慎な例えですが、そもそも「まつりごと」のは、「神への生贄」が必要なのかも知れません。「まつりごと」に参画する構成員は、常に覚悟しなければないことでしょう。
その大前提として、政治家自身は犠牲を払っても、国民的な犠牲は払わないよう、最大限配慮する事でしょう。勿論、どのような政策であっても、その政策によって利益を被る人々と、不利益を被る人々が生じるのは事実です。政治家はどのような良策を遂行したとしても、その事実には常に心を配るべきでしょう。
広く公論を興すためには、政治家の集団は個性や多様性が無くてはならないでしょう。現在の日本の置かれた状況や、様々な課題について、一つの政治的な姿勢に過剰適合することなく、必要と有れば振り戻しを含めた、試行錯誤や紆余曲折が十分に見込めます。
企業の業績の向上を図るか、国民の生活の福利厚生を優先するか、大きな政府か、小さな政府か、改憲か、護憲か、対米協調(同盟・追随)か、アジア重視(指向)か、現実的か、理念的か、等などの対立軸で、政論を深めるべきでしょう。
真の政治家は、悪徳の汚名も敢えて甘受しなければならないものでしょう。これには、社会的な多くの犠牲を閑却したとする汚名と、そのものズバリ汚職による汚名があります。
もっとも、巷間ささやかれている程には、政治家の仕事の中に、私的な利益を前提とした、利益誘導の余地は少ないと、私は考えています。そもそも、短兵急に利益を図る政治家の政治生命は、さほど長くはないものです。
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