先の総選挙では、「外交」は主たる争点になりませんでした。相当の割合の国民が、日常の生活を基準に判断し、前政権が、国民生活の犠牲を十分に顧慮しない、と判断し。その投票行動の移動が、政権交代をもたらした、と私は考えています。
「憲政の常道」を効果的に作用させる小選挙区(比例代表並立制)といった選挙制度によって、投票行動の「移動」が、「改革」に変化し、こと外交に関しては「革命」にさえ転化し得る、可能性が生じてきました。
新政権の「東アジア重視外交」(⇒東アジア共同体)は、日米(軍事)同盟を必須とし、中国謀略説を日頃喧伝し、自公政権の外交でさえも「生ぬるい」としてきた向きには、さぞ面白からぬ印象、あるいは本心で危惧を与えるものと拝察します。
しかし、事は歴史の経験則で判断すれば、一目瞭然ではないかと私は考えます。大規模な無差別爆撃や原子爆弾の投下によって、日本の主要都市を破壊し、数十万の一般国民を殺戮してさえも、一切罪に問われないばかりか、真珠湾攻撃を奇貨とし、早期戦争終結といった免責論で、むしろ「正当化」して憚らない国家、アメリカとの軍事を基盤とした同盟です。
そのような「好戦国家」の軍隊を、敗戦後60有余年、国内に進駐する不自然さを、日本国民は虚心坦懐に、再考すべきでしょう。
その一方、日本の文化・文明の大きな源流であり、過去二千年以上の間、モンゴルの軍事支配下でのみ、日本侵略に加担した以外、国家や民族として、日本本土に何ら組織的、直接的な危害を及ぼすことの無かった、民族国家群に正当な評価がなされて来たでしょうか。
間接的な状況を作為的に積み重ね、様々な憶測によって、恣意的な対決意識や差別意識を工作・助長してきた、貧しい発想の人々が未だに多いのが残念ながら今の日本の現状でしょう。これは、私が入間市議として、様々な事例に遭遇するたびに、失望感を伴って、認めざるを得なかったことです。
先日も、私が驚くとともに慙愧に耐えなかったことがあります。それは、戦後の日本で、アメリカからの自立(離脱)やアジア重視(指向)の政治家や社会運動家に対して、アメリカが数々の謀略工作を実施してきた可能性について、話題が及んだ際での出来事です。
一国の主権が、他国によって侵害される事の非を論ずべき時に、「そうであるから、アメリカに逆らったら失脚する」といった、売国奴的な発言でした。
昨今の日本の政権の外交は、それを平均的な日本国民が希求したものでないとしても、一定の成果を期待したいと考えています。殊更に「護憲」を意識しなくても、曖昧な形態であっても、ともかく「平和主義」が世界に普及すれば、それで事足りるのです。
コメント