人類の文明は、自然に手を加え、多かれ少なかれ、自然環境を破壊してきました。採取から農業という段階で、森林の伐採や灌漑用水の確保、狩猟から牧畜という段階でも、森林伐採や家畜の飼育のための自然採取といった食物連鎖の絶ち切りを行っています。
政治が長期的な企画力や組織的な動員によって、自然破壊を促進してきた事は否めないでしょう。とくに専制政治の下では、為政者側の視点だけが批判もなく、野放図に遂行される場合が多く、後世に負の遺産となって残る場合もあります。
日本の江戸時代初期に、「瀬がえ」といった、大規模な河川工事がありました。将軍の膝元である「大江戸八百屋町」から、水害の可能性を遠ざけるために行った事業であるようです。私宮岡治郎は、専制政治の下での「治水事業」はことごとく差別を含有し、長期的展望の視点を欠くものと考えています。
利根川は元来江戸に流れ込んでいました。それを鬼怒川につなげて、銚子方面まで遠ざけること自体に、為政者の都合や、人民の生活基盤へのしわ寄せ、そして何よりも自然法則への矛盾がありました。
元来利根川であった地域は、古利根川の僅かな流路を残して、耕作地となり、武士を捨てた人々などの入植地として、定住が始まりました。
この弊害が顕著となったのは、徳川幕府消滅から80年後の1947年のカスリーン台風での水害です。元来、銚子方面への「放水路」だけでは流末を吸収できない水量のため、栗橋付近で堤防が決壊し、もともと利根川であった、埼玉県東部や東京都東部の低地に、洪水となって押し寄せています。
このときの雨量を基準に、利根川水系上流の群馬県内に、利水を兼ねた、治水ダムが多く建設されて来ました。はなはだ不謹慎な言い方をするならば、もともと川であったところが、川に一時的に復帰した、というのがカスリーン台風の教訓の一つであったと思われます。
今後、「治水事業」に関しては、徐々に元来の自然の河川の流量事情に復帰させる方向で、政治が作用するべきであると考えます。
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