午前中に、仏子駅から西武線で池袋駅、池袋駅から山手線で日暮里駅、日暮里駅から京成電車で千葉県の佐倉駅までと移動し、佐倉市内の佐倉城址で旧陸軍の連隊施設跡地にある、『国立歴史民俗博物館』に昼頃赴きました。
昼から、午後4時半の閉館近くまで、正味4時間にわたって、『歴博』を観覧しました。10数年来計画しておきながら、今まで延び延びとなって来ましたが、本日遂に実行しました。
先日、議員活動日記の執筆の参考資料として、ウイキペディアでブレヒトについて、生年月日などのデータを確認中に、ブレヒト研究の第一人者岩淵達治氏が参考として記載され、リンクで氏のご令息が、『国立歴史民俗博物館』で准教授を務めておいでであると知り、急に親近感がわいたためでもありました。
多少面識のある岩淵達治先生の、ご令息の岩淵令治氏が、『歴博』のホワイエのプロモーションビデオに登場した時は、縁は異なものと思いました。親子二代の恩師にめぐり合うという事もあり得るのものか、と感慨深いものがありました。
延べ面積約3万5千㎡の中で、展示は、原始・古代、中世、近世、近代、現代に展示室単位で区分されていました。
『原始・古代』では、「炭素14年代測定結果」に基づき、弥生時代の開始時期を、「九州北部」について、従来の年代観よりも500年程前の、紀元前1,000年頃との、独自の説が打ち出されていました。
自宅に帰ってから調べますと、この説には賛否両論あるようです。ともかく、考古学の対象となる年代が延びるほど、「神話」が否定される範囲が拡がると考えました。日本国民に「神話教育」といった、荒唐無稽な雲を掴むような物語に基づく、危険な大衆操作が、多くの国民の命と財産を奪った時代もありました。学校教育の段階で、考古学という「予防ワクチン」を十分に施すべきでしょう。展示では、青森県の「三内丸山遺跡」の復元模型を興味深く眺めました。
『中世』 では、飯能市の智観寺の板碑が模造(レプリカ)とはいえ、二つも展示されていました。『国立歴史民族博物館』愛称『歴博』は国立の施設ですし、全国ブランドということになるでしょう。〈副室〉の印刷文化で、中国の古典『史記』の宋版の注釈書で、直江兼続所蔵から上杉藩藩校の『興譲館』に渡った現物が、ガラス越しに眺める事が出来ました。
『近世』では、何と言っても伊能忠敬の日本地図の雄大さと精緻さが、圧倒的な迫力を持ちました。
『近代』では、大正から昭和初期の、活動写真館の佇まいが、よく出来ていました風俗史の調査研究の成果です。
『現代』では、地元の佐倉歩兵第五十七連隊の満州(当時)への派兵とグアム島への転進と、玉砕が悲劇的でした。また、戦後の高度経済成長期に水没した、奥只見の『田子倉集落の再現模型』が、現在のダムの水面の表示とともに、表示され、これも大きな悲劇と思われました、。
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