「並べて論ずるには、余りに小さい」といったセリフを思い出しています。 私が、1976年に鑑賞した、東宝映画『続・人間革命』の一場面での事です。
創価教育学会の二代目会長となる、戸田城聖が布教活動と事業経営の2つの悩みを、夢想状態の中で、日蓮に告げた時の、日蓮の返事の中にあったと記憶しています。 宇宙的な真理によって、万人を救済する布教活動の大きさと、それに比較した、私的な金融事業経営の小ささを、本筋に則して喝破しているわけです。
先日述べた福井地裁の判決では、「多数の人の生存そのものにかかわる権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的に許されないと考える。」とあり、「小さい議論」どころか、「法的に許されない」と更に一歩踏み込んで、論じています。
判決文は、それよりも前の部分では、「人格権の中核部分」よりも劣位に置かれるべきものとして、「原発の稼働」を位置づけています。「優位」の反対語である「劣位」を、このような積極的な使用事例として眼前に突きつけられる時が、自分の人生で訪れろとは、夢想だにしませんでした。
さて、「国富」といえば、アダム・スミスの『国富論』を連想します。 判決では、「豊かな国土そこに国民が根を下ろして生活していることが国富である」として、「原発の運動停止で多額の貿易赤字が出る可能性」は、正に「並べて論ずべきではない」としています。
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