一昨日の19日(火)の夜9時から10時半過ぎまで、NHKテレビのBS放送で、1954年版の映画『ゴジラ』を視聴しました。
私は、1984年版の『ゴジラ』の公開時に、有楽町の「マリオン・ビル』内の映画館で、ロードショーと併せて、別の映画館で、リヴァイヴァルとして、1954年版の上映を鑑賞したかと記憶しています。 もっとも、私はその頃まで、テレビの放映の一部視聴や、テレビで、思い出の映画の場面集の一環として、断片的な「鑑賞」がありました。
それにしても、私が28歳時点での1954年版『ゴジラ』鑑賞については、いくつかの点について、鑑賞の能力不足、力量不足があった事に、今回気付きました。
一つは、ゴジラの東京襲撃は、広島と長崎の原爆投下に続く、第3の核攻撃として描かれている事情です。 これは、映画製作当時の歴史的な時代背景を、十分に理解していなかったため、薄々想像はするものの、メッセージとしての理解が全く駄目でした。 私自身、2011年の『フクシマ』を経て、ようやくこの映画の強いメセージを正しく理解出来る様になったのかも知れません。 船舶が次々と襲われるのは、『第五福竜丸』を意味しています。
そもそも、ゴジラ自体が放射能を帯びており、口から吐くのは火炎ではなくて、放射能です。 東京は核攻撃を受けたのと同じで、多くの都民が被爆者として、病院に収容され、学校では鎮魂歌がうたわれる、東京は放射能汚染地となり果てるのです。
もう一つは、ゴジラを倒す秘密兵器と結果的にはなる『オキシジェン・デストロイアー』生みの親の芹沢博士の苦悩が、戦争で傷を負った為というのは、一面的な理解であるという事です。芹沢大助自身の苦悩は、自己の生み出した発明品が、平和でのみ使用される保証の不確実性であり、これが主たる理由です。 それに、戦争で受けた傷といった現実体験が従たる理由で、実際に戦争に使用される蓋然性の高さと、その成れの果てを生々しく想像する事で、苦悩が増幅するといった設定です。
SF映画に頻繁に出現する『狂った科学者』、マッド・サイエンティストとといった範疇からは、一線を画する必要性があります。