私の長年の怠慢もあり、従来の歴史学習では、なぜか不明確で理由を把握出来なかった、私にとっての歴史の盲点解消の学習をしました。
盲点の原因は、高校の日本史の教科書では、背景となる事情説明や資料が不足していた為でもありました。どこまで信憑性があるのか疑問に思われる向きもあるようですが、WIKIPEDIAが役に立ちました。
園盲点とは、江戸時代中期の徳川『御三卿』の構造です。江戸幕府の八代将軍徳川吉宗が、田安家・一橋家を、9代将軍徳川家重が、清水家を創設しています。私は、単に御三家を遠ざける、策謀位にしか従来考えて来ませんでした。
それはさて置き、この『御三家』の内側の『御三卿』構造の中での、将軍位継承の順位の疑問です。一橋家よりも、いわば『御三卿』筆頭の田安家から将軍を出すのが順当と思われるからです。
2代目で英邁の誉高い田安定信がなぜ、白河の松平家に出されたのか。そして一橋家の2代目一橋治済の息子、3代目の一橋家斉が11代将軍となったのかが疑問でした。9代徳川家重の庶子の家治が10台将軍となり、その後家治の嫡子が11代将軍と予定されており、そのタイミングに田安定信は遠ざけられたようです。
松平定信は、結果的に徳川家斉の家来筋の老中となり、歴史上徳川幕府の三大改革に一つ『寛政の改革』を推進しますが、後に在職6年余りで退陣となった訳に合点がいきました。
田沼意次の政治を一面的に批判しすぎ、その功績を全く度外視する姿勢、朱子学の教条主義による過剰な大義名分論、思想や文化の狭量な統制等々が、天下泰平を満遍なく普及させる事をもって良しとする幕藩体制にうまく適合出来なかった。これが原因のようです。
皇室との対立を深めた『尊号一件』も、『禁中及び公家諸法度』の機械的な適用だけが問題ではないようです。
徳川将軍家側で、11代将軍徳川家斉の実父一橋治済の「大御所」への格上げの願望があった、といった事実で政治的な動向が読めました。これら「余りに人間的な理由」によって、老中松平定信は失脚した様です。
もっとも、素質的な遺伝は後世に貢献し、実子で松代藩の藩主となった、真田幸貫は幕末の名君の一人で、内陸の山国の小藩ながら幕府の『海防』担当となり、天才佐久間象山の活躍に、道を開いています。