坂口安吾が1952年(昭和27年)10月に発表した、文明論的国防論『もう軍備はいらない』を読みました。
既に軍備万端整い、自国内の防衛の外にまで踏み出した、現今の日本では、こういった論考は意味をなさないのは明白です。
敗戦後、日本が軍備を剥奪された一時期、再軍備の必要性を唱える政治勢力が抬頭した時代背景での、再軍備反対の文化的国防論です。
冒頭は、戦争末期の空襲の下での、国防とは異次元の退廃(デカダン)や凶悪犯罪等の悲喜劇の記憶が、生々しく述べられていて、戦争の本質に迫ります。
ここで、「国防は武力に限るときめてかかっているのは軽率であろう。」といった金言を発します。
私の持論では、軍備とは、いつの時代でも「急迫不正の侵略に対抗するため」唱えられるものでしょう。 ところが、安吾の独自の視点は、それでは侵略から守るべきは何か? と、ここに掛かって来るのです。
財産や富貴で奪うべきもにのが果たして日本にあるのか、といった敗戦国の自虐を基礎として、論述は進みます。
蓄積した資産であるならば、強盗に遭遇するのでは、といった不安の対象となろうが、日本人に幅広く行き渡った、技術力や芸術性ならば、日本人全体を盗まねばならず、それは不可能である、と結論付けています。
現代用語を用いるならば、ハードウエアーは強奪出来ても、ソフトウエアーは強奪出来ない、といった所でしょう。
今後の、日本や入間市の、学校教育や生涯学習、各業界の技術力の増進について、その従来の意味での文化価値に、「国防」といった新たな価値観を上乗せする事になりました。
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