長崎市は、他の多くの港湾都市と同様に、坂の多い街が丘の斜面まで広がっています。市役所も平坦地の繁華街を避けるように坂に位置し、傾斜した敷地である為、議会棟の建築構造も階数が複雑でした。視察目的は、『長崎伝習所』でした。幕末の「伝習所」の輝かしい伝統を背景に、その衣鉢を継ぐべく1986年に開設された、複数の塾の集合体です。
説明は、パワーポイントの投影を主にして、言葉で補足するものでした。冒頭に、「歓迎 入間市議会様 ようこそ!長崎市へ」と写され、入間市の緑の紋章も含まれ気の利きようです。画面の下側には、長崎の春夏秋冬の祭りが表示されました。ちゃっかりと、視察の併せた「観光」を誘導しているようです。
『出島』は、長崎市によって徐々に復元が進行しています。私自身が20数年ほど前に訪れた際には、「ミニ出島」位しかなかったのですが、南側の半分の建物群が、文書の歴史的検証や、地下埋設物の考古学的実証によって、正確に再現されていると思われます。
今回、その建造物群のそれぞれを個別に立ち入ったり、全体的に把握した上での私なりに気付いた感想を率直に申し上げれます。「出島」とは、文字通り港の岸壁から外の隔離施設であると言う事です。
本来ならば、港に上陸させ、歓待すべき異国の人を、上陸を認めずに、湾内の人工島の留め置いた施設であり、「迎賓館」の反対概念の施設です。「鎖国」という封建的な統治政策の、歪が凝縮しているように思われました。
建造物も、和洋折衷などとは程遠く、不完全な和風建築と呼ぶのが適正でしょう。和風の文化も、洋風の文化も、この空間には存在しません。和風の畳や土間が、無造作にあるばかりで、空虚さだけが印象に残りました。勿論そこに滞在した人物や、衣類、調度品を抜きにして、いわば空室となった建物に、博物館的な展示物を閲覧する為に生じた、私の錯覚も含まれているとは思います。
『長崎原爆資料館』では、ボランティアの方の案内で見学しました。客観的(と思われる)事実の積み重ねによって、来館者に実感を以って納得させる方法でした。その圧巻は、広島との比較論でした。
「アメリカの原爆投下の正当化の論拠である、戦争の早期終結への貢献との論法で、広島の原爆投下について、1%の理(一分の理と言わない)を認めたとしても、長崎についてはその論法は100%当てはまらない。なんとなれば、戦争の早期終結に寄与しない。更に、広島型は核弾頭はウラニウムであり、長崎型はプルトニウムであるからだ。ウラニウムと最も有害なプルトニウムの比較の実施検証であり。長崎の原爆投下目的は、純然たる人体実験である。」
それに畳み掛ける様に、悲惨で怖ろしく、おぞましくもある、原爆の現実を提示し、それでもなお続く、現代世界の核兵器の配備の現状を摘示し、来館者自らが考えるといた、方法を駆使してしました。
出口付近の廻廊やホワイエ、慰霊の像や碑の脇には、無数の千羽鶴の折り紙が、飾ってありました。