自戒を込めて申し上げれば、類似の歴史事実を混合する粗略な態度は、あまりその事情に詳しくない多くの人々に、誤った歴史認識を植えつけるきっかけとなるようです。
よくある事例としては、幕末慶応2年(1866年)の『武州一揆』と、明治17年(1884年)の『秩父事件(秩父困民の騒乱)』との混合です。混合する人々が、なかなか跡を絶ちません。
幕末の思想家・教育家の吉田松陰について、下田での『米艦渡航未遂事件』と『安政の大獄での刑死』とを、混合する例も多いようです。
『米艦渡航未遂事件』では、門弟の金子重輔を伴って「企て」、米艦側の拒絶と「隠匿」の配慮にもかかわず、自ら幕吏に「密航」を自首しています。その後、長州藩の萩の「野山獄」に入獄し、その自宅謹慎の後、刑余の人として「松下村塾」を開き、久坂玄随や高杉晋作等の倒幕運動家を養成する、端緒となった事件です。
『安政の大獄での刑死』では、反幕派弾圧強化に対して、少ない状況証拠から、幕吏の取調べ中に、大老井伊直配下で、取締りを強める老中真部詮勝への「襲撃」を思いついた事を、敢えて披瀝した為に、死刑となった事件です。
事件の性質がかなり異なる上に、時間的な差異が数年ですが、この二つの事件の間の時間での松蔭の活躍が、大きな意義を持つわけです。明確に識別しなければなりません。