あまり上達しなかったものの、二十歳頃、かなり将棋に熱中しました。当時は、このゲームには究極的に理論的な整然性があるものと信じて、将棋を指していました。今にして思えば、根本的な錯誤に基づいていたものです。
35年後のこのコンピューターの極度に発達した時代ですら、決定的に必勝の手順は、見いだされません。そうであるならば、無限の可能性の中から、自分に合った手筋を試行錯誤の中で展開してゆくのが、上達への道であったようです。
当時覚えた将棋の格言に「寄せは俗手で」というのがありました。昔からある格言で、現在でも現役かと思います。広辞苑によりますと、将棋で「寄せ」とは、「終盤戦」のことで、「俗手」とは、「初心者が指したりするような平凡でつまらない手」とあります。したがて、「終盤は平凡に」といった意味であり、かなり汎用性の広い言葉であるように思われ来ました。
特に座右の言葉というのではありませんが、市議会議員活動でも、月並みさが無難であろうかと判断する事が多く、その際に「寄せは俗手で」を思い返します。
政治上の勝負は、微妙である場合が多く、確かに最後まで勝敗は分からないものですので、手抜かりは禁物です。が、序盤や中盤で勝敗の趨勢がつけば、勝つ場合も、負ける場合も、あっさりとした方が良いようです。
下手に小細工を弄すると、勝ち勝負を自ら逆転負け勝負としてしまい兼ねず、負け勝負を更なる惨敗に貶めてしまい兼ねないのです。
「俗手」といは云い得て妙なものです。聴衆や傍観者、一般市民にも政治上の勝敗は、明示した方が、勝ち負けの利害得失よりも、価値を持つ場合もあるものです。