昨晩、フジテレビで『世にも奇妙な物語』を視聴しました。 全5作品の中2作品について、自分の議員活動に照らし併せて、感慨深いものがありました。 そこで、従来もそのように考えて来た事ですが、改めて確認すれば以下の通りです。
① 『昨日公園』: 主人公が夕刻公園で親友に会ったその後、その親友は不慮の事故死を遂げる。 翌日弔問の場から、公園に移動してみると、いつのまにか主人公は昨日の夕刻にタイムスリップしていて、再び昨日とそっくりそのままの親友に会う。 そこで、主人公は親友の死の運命を変えようとするのだが、変えれば変える程、更に悪い結果、更に更に親友の家族さえも巻き添えにする死が待ち受けている。 そこで主人公は悟る。 運命はそのままとし、人の出会いの「一期一会」を大切にして生きるべき事を。
過去を変える事は不可能である、と同時に仮に過去を変えた場合、想定できない悲劇が派生する可能性も否定出来ない。 また、将来についてあらゆる角度から憶測をしても、その通りになるとは限らない。 むしろ、想定外の副次的な事態が発生する蓋然性の方が高い、人間の人智には限界がある。
よって、私が行うべきは、今現在、捕捉できる周囲の人々や、音信の通じる範囲の人々との連携の下に、地道に努力する議会活動であり、それが生理学的にも最も能率的で理に適っている。 自己の知力の及ばない範囲には、勇み足をしない。
② 『思いでを売る男』: まっとうな男が、職場不適合と見做されて失業し、再就職もままならず自暴自棄となる。 サラ金地獄や家庭崩壊、更に闇の売血から、違法な臓器売買の誘いまで受ける身の上となり果てる。 そんな彼を襲う「究極の搾取」が、何やら高度な特殊装置による「思い出の切り売り」研究所の、闇の商売人である。
嫌な思い出が無くなって、金になるなら好都合と割り切った積りが、借金取りの圧力もあって、この人格破壊は促進される。 それは旧友たちも大いに傷つける。 主人公が、かつて高校の野球部時代に試合で大失策をした事も、皆んなにとっては、決して「嫌な思いで」ではなくて、麗しい青春時代の懐かしい思いでであった。
技術革新の先を想定した架空の設定ですが、文明にはあらゆる手段を駆使して「人間への搾取」を志向する、といった悲しい人間の側面を反映する側面のあることを、常に念頭に置く必要があるでしょう。
私は、それに立脚して、搾取の無い経済活動、人格を重んじる福祉施策、そして何よりも究極の人間性否定である戦争の防止、を考察し推進します。