20日(土)、21日(日)と二晩連続で放送された、テレビ朝日のドラマ、『刑事一代』を視聴しました。実在の刑事、平塚八兵衛を渡辺謙が演じていました。私は昔、現実の平塚刑事のテレビインタビューを視聴しており、吉展ちゃん殺人犯の小原保の「身代金要求の電話の録音テープ」の肉声の一部をテレビで聴いてもいます。
テレビでの平塚は躍動的で感情の起伏が激しく、小原は怜悧でハンサム過ぎるので、現実感は有りませんでした。このことから当然に、事実の誇張や架空の設定を含めた物語と割り切って鑑賞しましたが、意外と興味を持ったのは、刑事の犯罪捜査の方法と、政治家の政策実現の方法とが、意外に類似している点です。
殺人事件を起こした凶悪犯への接近、そして自白への手段と方法が、決して直接的なものではなく、間接的であり、警察といった組織からは逸脱する面も多々あります。容疑者への相当の譲歩もあり、なおかつ人間的で非人間的、非道徳的で道徳的ですらあるといった設定です。ぎりぎりの駆け引きの世界です。
政治の場合も、単に相手の話を聞くだけではなく、本心や核心的な部分を聴き出さなくては、意味を成さないと考えるようになりました。どのような政治行動にあっても、打算や私的な動機付け、感情論を抜きにしては、政治は機能しないものです。
凶悪犯罪を解決することによる、社会的な利益は計り知れないものがあります。それ故に、「正当な手続き」の連続では、決して超えられない「ヤマ」の存在を認め、非常手段もやむなしと容認する上司の言葉が、刑事稼業のほろ苦さでしょう。
以下、(1)帝銀事件、(2)守衛殺人事件、(3)吉展ちゃん誘拐殺人事件、(4)三億円強奪事件、と順を追って分析してみます。(1)は平沢貞道が真犯人であるといった前提で、(4)は平塚の方法が的確性を欠いているのか、初動捜査での見込み違いで解決不可能となっているのかは、おそらく永遠に不明でしょうが、一応論じます。
(1)帝銀事件の場合、容疑者平沢の娘からの聞取り捜査の段階で、相手の共感を得るために、詐欺的行為で誘導します。すなわち、二人の子どもを抱えた寡婦である平沢の娘の共感を得て聞き出しを有利に運ぶ為、実際は自分の妻が健在でありながら、「自分も二人の子どもを抱えた、男やもめ」である、との騙しの技法を用います。
この聞き取りがそもそも別の犯罪捜査を装う点や、実の娘が父親に不利な証言をするように仕向ける点などが、拭い去れない反道徳的な所業となります。正に、業の多き仕事です。
(2)守衛殺人事件の場合、行方をくらました容疑者の妻から、容疑者の在り処を聞き出す手段として、百円札二枚を小遣いとして渡します。これは厳密に言えば警職法に触れる行為であろうと思われます。ここでは、夫が他の女に恐喝を働く程の間柄であることを利用します。
(3)吉展ちゃん誘拐殺人事件の場合、取調べ期間が過ぎた後になって、決め手となる供述を得ると、「便所へ行く」といって、容疑者から逃れて、電話で上司に報告し特別の許可をもらって、自白に持ち込みます。
(4)三億円強奪事件の場合、(1)~(3)までの様な方法は功を成さず、捜査から離脱します。犯人が、(1)のゲーム感覚、(2)の恐喝癖、(3)の犯罪歴といった、特異な性格を伴わなかった(と推定されるからです)。(3)までのような方法が通用しない、といった時代性も、政治の世界でも当てはまるように思えました。
「嘘も方便」という言葉は、高度な整合性をもった教義の理論体系を、いきなり理解することの困難な衆生に対して、宗教家が、暫定的に真理への階段を一段上がらせる手段である、と考えられます。
そういった意味において、主人公平塚刑事の手段や方法は、既に凶悪犯罪を犯した犯人や、その身内を騙して、立件に至る道筋を得るに過ぎません。全くといって良いほど、教育的な指導が付随しないのです。それでも刑事は教訓めいた話術を用いるといった矛盾の中に突入するのでしょう。
刑事は、犯罪を立件できれば100点、出来なければ0点、と割り切る、徹底した執念で捜査を積み重ね、極めて偶然的に、いわば僥倖として、事件は解決に向かいます。いわば博打的な要素もあるのでしょう。「目的は手段を正当化する」といった自負もあったと思われます。