地球的見地で発想し、それを常に念頭に、国や地域の課題に対応するのが、政治の使命である、と考えて来ました。think global であり、「着眼大局、着手小局」である、ということです。
並行して、政治の矛盾を長年、身に沁みて感じてきました。「人権意識」と「政治的努力」、「行政実務能力」と「人身収攬術」とは、多くの場合、両立しないものである、といった悲しい現実に直面するのが、私の政治人生の宿命のようです。
専制政治であれば、人民は政治に関与しませんが、民主政治であれば、行政のあるべき姿と、人民の関与とを、順接としてだけではなく、かなり逆接として把握せざるを得ません。そこで、政治の分業も必用である、との結論で暫定的に納得しています。
ドイツの文豪ゲーテ(1949~1832)の『ファウスト』の中で、狡知に長けた悪魔「メフィストフェーレス」が、いみじくも言うように、「善を欲して、悪を成す」作用も、逆に「悪を欲して、善を成す」作用も、どちらも政治の世界では当てはまるようです。
勿論、積極的に悪を欲して、それが結果的に善となる確率は極わずかであろうと考えます。また、方便や便宜としての悪である、との自覚無しで悪を「欲され」ても、決して善をもたらし得ないと考えます。哲学者西田幾多郎が説くように、「悪」とは、所詮偏頗なものに過ぎないのでしょう。
一般大衆の中の一定の割合を占める方々は、残念ながら、道義や倫理の意味そのもの、また、意義や有益性を理解していないのが現状です。そのような方々の意識を巧みに吸い上げるポピュリズム政治を廃し、「正道」を勧めるのが、真の政治家たるものの努めでしょう。
ところが、国政、県政、市政の区別なく、政治家さえもが、この「根本義」や「自明の理」すら、十分に消化していないのが、今の日本の現実なのです。
ドイツの社会学者マックス・ウエーバー(1856~1920)は、外国からの武力の行使に対抗するための国軍や、犯罪を取り締まる手段としての警察を、本質的に Gewaltapparat (威力装置)と命名し、それ自体の弊害を論じています。国家権力の文民による、軍の統制(シビリアンコントロール)の論拠の一つであり、ウエーバーは、現代の警察の上部構造となっている公安委員会の機能の必要性を想定していると思います。
更にウエーバーは、第一次大戦後の晩年の著作『天職(Beruf)としての政治』でも、「国家とは、・・・正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である」と喝破しています。究極的には、余りにも私的な動機付で左右される政治を前にしても、「現実の世の中がどんなに愚かであり卑属であっても挫けない人間」、「denn noch 「にもかかわらず」と言い切る自信のある人間」、を強調しています。
また、私自身の政治的言動は、これまたドイツの劇作家ブレヒト(1898~1956)の「叙事的演劇」を意識しているものが多くあります。すなわち、事後的な弁明を発するのではなく、あらかじめ宣言の上で、着手する形態です。
私の政治言動は、市民の感情移入を狙うものではなく、市民に、偏った政治に対する、批判精神を惹起するところにあります。